華道・生け花の歴史について解説

武道や芸道といった言葉があるように、日本には古来「道」という概念があります。 これはものごとを単純な技法体系としてだけではなく、そこに精神の修養や礼節の尊重といった教えを結びつけ、哲学性へと昇華する文化とも言い換えられます。 そんな数ある「道」のうち、花を生けることを主眼とするのが「華道」です。

「生け花」という呼び名でも知られるこの道は、日本文化特有のおもてなしの精神をよく体現した文化として多くの人に愛好されています。 本記事では、そんな華道・生け花の歴史について概観してみましょう。

華道の起源

華道の起源 「花を摘んで手向ける」という行動は、現生人類であるホモ・サピエンスにおいては非常に古い事例が確認されています。 およそ1万2000年前とされるイスラエルの墓地遺跡にその痕跡があり、ミントやセージといった花々が添えられていました。

こうした精神性はホモ・サピエンス以前の人類にもあったと考えられており、正確な起源は不明であるものの、人間にとって「花を供える」という感覚が数万年単位の歴史を持つ証ともいえるでしょう。 これを華道の直接のルーツというのは難しいかもしれませんが、花を愛でるという人類普遍のメンタリティは注目に値します。 日本における華道の起源には仏教伝来が大きく関係しており、以下にその歴史を概観してみましょう。

仏教との関わり

日本へと仏教が公式に伝来したのは6世紀半ば頃のこととされています。 仏教では仏に花を手向ける「供花(くげ)」という作法があり、この文化が華道の発祥に大きく影響していると考えられています。

また、後に神道と呼ばれる日本古来の神々を祀る信仰においても、樹木には神霊が宿るという観念がありました。 こうした基層信仰とあいまって、花を神仏に手向けるという風習は自然に受け入れられていったものと考えられています。

生け花の始まりは室町時代

生け花の始まりは室町時代 現在に伝わる生け花や華道の直接的な源流は、室町時代半ば頃に始まったとされています。 以下、その開祖ともいえる「池坊(いけのぼう)」について概説します。

華道の祖・池坊

華道の祖として最古の流派とされるのが京都の「池坊」です。 現在の京都市中京区にある紫雲山頂法寺、通称「六角堂」の僧侶によって行われた供花がその起源と伝わります。 六角堂の本尊である如意輪観音に花を供えていたのが池坊の僧侶で、その関わりが初めて文献で確認できるのは1462年(寛正3年)、室町時代の半ば頃です。

「専慶」という池坊の僧が金の水瓶に数十本の花を生けて洛中の評判になったことが記録され、1542年(天文11年)には「専応」が生け花の基礎理論書を著し、その技術を体系化しました。 池坊の名を盤石にしたのは三十一世家元の「初代・専好」で、豊臣秀吉にもその技を披露したことが知られています。「二代・専好」と共に、後述する「立花」という技法を発展・完成させていきました。 また華道の発展には室町時代に大成した「茶の湯」の流行も不可分な要素です。

現代の茶道でも知られるように、茶席では床の間や花差しに花を生けることが重要なファクターであり、相互に必要とされた嗜みでした。 池坊では二代目専好の時代に徳川幕府、そして朝廷からも花を生ける技がますます重宝され、それは徐々に貴族や武将のみならず一般庶民へも普及していきました。

江戸時代以降、庶民へと広まった生け花

江戸時代以降、庶民へと広まった生け花 江戸時代中期に入ると、生け花が民衆へと広まる動きに呼応して新たなスタイルが生み出されていきます。 戦のない安定した世情と、一般市民が経済力を持つようになった時代のニーズから、生け花もまた特権階級の枠を越えて愛好されるようになっていきます。

その普及には、二代専好らに始まる池坊の宗匠たちによる地道な活動がありました。

現代華道の源流になった生花(しょうか)

江戸時代中期頃には池坊の伝統的な立花に対して、「生花(しょうか)」と呼ばれる形式が生み出されます。これは1~3種類の花材を使って、軽やかな佇まいで生けるのが特徴です。 江戸時代後期の文化・文政期(1804年~1830年)には特に流行し、この頃の生け花が現代の華道に近いものと考えられています。

池坊以外にも多数の流派が確立され、例えば遠州流の系統では「曲生け」という技巧を凝らしたスタイルが人気を呼びました。 花器や花台といった周辺の道具にも趣向を凝らしたためより総合的な様式美が確立され、多くの流派へと分岐する契機ともなっていきます。

ヨーロッパにも影響を与えた生け花

日本で育まれた生け花という文化は、江戸時代末期から明治期にかけてヨーロッパにも紹介され、西洋のフラワーアレンジメントにも大きな影響を及ぼしました。 折しも「ジャポニスム」の流行により日本文化への関心が世界的に高まっており、生け花の芸術性と精神性が高く評価されます。

日本でもやがて時代の流れとともにより多様な生け花のスタイルが生み出され、「瓶花(へいか)」や「盛花(もりばな)」といった新たに入ってきた西洋花に対応できる型などが登場しました。

華道の基礎的な理論とは?

華道の基礎的な理論とは? 花や草木を生けるというごくシンプルな営みを極めていく華道ですが、ただ感覚的に配置しているのではありません。 そこには古来より伝えられてきた美意識や、レイアウトに関する理論が体系化されています。 各流派によって呼称や考え方が少しずつ異なり、そこには複雑な極意が込められているため一口に概説するのは困難ですがいくつかの原則に触れておきましょう。

まず、華道による作品は基本的に鑑賞する方向が決まっている点に特徴があります。 これは360°どの方向からも見られるフラワーアレンジメントと異なり、「床の間」などに据える前提があるためです。そのため、生け花には鑑賞すべき「正面」というものが存在します。 また、自然のものである花や草木を生けるため、一つの作品が完全な左右対称になることはありません。

そのため不等辺三角形を基本とした、アシンメトリーの配置に美を見出すのが華道の基礎的なレイアウトといえるでしょう。 しかし同一流派であっても、例えば池坊の立花と生花ではその佇まいが異なるように、様々なスタイルごとに「型」が工夫されてきました。 いわばその流派・スタイルにおいて先人たちが編み出してきた黄金比であり、そうしたセオリーを学ぶことも重要な修行の一環です。

他にも季節感の取り合わせや配色の考慮、何種類の花材を用いるのか等々の前提によって生け方も無限の広がりを見せます。 繰り返しになりますが華道の基礎理論は各スタイルによって伝え方が異なる点もあるため、興味のある流派の教えに基づいて学習するのが望ましいでしょう。

華道で用いられる道具の例

華道で用いられる道具の例 次に華道で用いられる道具の例を見てみましょう。 基本的には花を生けるための花器、花材の姿形を整えるための花鋏、そして花材を固定するための剣山が挙げられます。 さらにはそれらを飾り付けるための花台も、多種多様な素材や大きさのものがあります。

また、華道では花ばかりではなく樹木を使うこともあり、場合によっては巨大な作品を志向することもあるためより大型の道具も必要です。 例えば小刀やのこぎり、金づちや電動ドリル、果てはチェーンソーなど大工仕事や山仕事で用いる工具を使用する場合もあります。

他にもあらゆる素材を組み合わせるために針金で固定したり溶接機を用いたりと、想像以上にダイナミックな方法で多様な道具を駆使しています。

華道の代表的な流派について

華道の代表的な流派について 華道最古の流派が京都の池坊であることは既に述べましたが、歴史上多くの流派が生まれました。 ここでは池坊を含め、代表的ないくつかの華道流派の概要をお知らせします。

池坊

華道の祖にして最古最大の流派。「池坊(いけのぼう)」が正式名称であり、池坊流とは呼びません。 京都六角堂の僧侶が仏に花を供えていたことが起源であり、室町時代中期の「池坊専慶」を開祖としています。 「立花」という古典技法に加え、「生花」「自由花」などのスタイルがあります。

専慶流

専慶流(せんけいりゅう)は江戸時代初め頃の華道家、冨春軒仙渓によって1669年(寛文9年)に創始された生け花の流派です。 立花の名手として知られた仙渓は著述活動にも注力し、論理の構築はもとより100種類以上の立花作品を掲載した大部の著書を完成。現在もその事績は『華道論集』として資料化されています。

未生流

未生流(みしょうりゅう)は西日本を中心に普及している流派で、1807年(文化4年)に未生斎一甫と未生斎広甫によって創始されました。

この時代は町人が大きく力をもって世情を牽引した化政文化期にあたり、天下の台所と呼ばれた大坂(阪)が発祥の地です。折しも一般庶民にも生け花が流行し、未生流は大盛況だったといいます。 この流派では直角二等辺三角形のバランスで花を生けることに特徴があり、華道を通じて心の安らぎを得ることを理念としています。

嵯峨御流

嵯峨御流は平安時代の嵯峨天皇を伝説上の源流とする華道流派で、京都大覚寺(嵯峨御所・嵯峨離宮)が開祖です。 1829年(文政12年)に未生流の未生斎広甫が「嵯峨御所華務職」に就任し、このことにより後に嵯峨御流と呼ばれる大覚寺の生け花が普及していきました。

この流派の生け花は伝統的な「伝承花」と、新しい感覚の「心粧華」といった二種類のスタイルに大別されています。

小原流

小原流(おはらりゅう)は1895年(明治28年)、池坊に学んだ小原雲心が創始した流派です。 「盛花(もりばな)」と呼ばれる花を盛るようにして生ける雲心の作風は、当初の華道界からは受け入れられなかったといいます。

しかし近代を迎えて徐々に生活様式が洋風化していく中、大胆に洋花を取り入れる小原流は一般市民を中心に人気を呼びました。 集団での教授や女性教授の誕生など、先進的な気風で近代以降の華道を牽引してきた流派の一つといえるでしょう。

草月流

草月流(そうげつりゅう)は1927年(昭和2年)、勅使河原蒼風(てしがわらそうふう)によって創始されました。 自由で前衛的なその作風は華やかで、ある種フラワーアレンジメントにも近い佇まいを感じさせます。 草月流では花を生ける過程そのものを実演する「デモンストレーション」、また音楽や照明などの演出を組み合わせてパフォーマンスを行う「いけばなLIVE」などの取り組みもあります。

まとめ

生活に彩りを添え、心に安らぎをもたらす花。 そんな花を生ける技を、先人たちは工夫研鑽を重ねて「道」として高めてきました。

華道の持つそうした歴史と知恵の精髄に触れる機会は、意外と身近にあるのではないでしょうか。 生け花を目にするとき、ぜひそうした視点で鑑賞してみることをおすすめします。
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