7月5日は江戸切子の日に認定されています。切子の典型的な模様の一つ「魚子(ななこ)」の語呂合わせにちなんだ記念日です。今回はそんな伝統的な工芸品である切子について紹介していきます。
目次
切子とは?
簡単に言うとガラス細工のことです。グラスや食器などをガラスで作り、デザイン性を高めるためにガラスを削るなどして美しい装飾がされてあります。工芸品として幅広く愛されています。
和ガラスの歴史
和ガラスの歴史は約2000年と言われています。ガラスは弥生時代に日本に入ってきました。最初は大陸からもたらされたガラスを高温で溶かし、型に当てはめて冷やすという手法でガラス製品を作っていました。その後、どんどん技術が発展していき純国産のガラスも製造も可能になっていきます。
そして江戸時代になると食器などのガラス日用品がオランダなどから伝来します。そして、江戸末期~明治にかけて著しく発展していき、現代でも日本のガラス製品は広く使われています。
そして江戸時代になると食器などのガラス日用品がオランダなどから伝来します。そして、江戸末期~明治にかけて著しく発展していき、現代でも日本のガラス製品は広く使われています。
江戸切子、薩摩切子の違い
薩摩切子は、厚い色ガラスを重ねた色被せ(いろきせ)ガラスも用いており、またホイールを用いた深いカットと大胆な形のものが多かったです。しかし、特に江戸時代末期の江戸切子は、手作業による細かい細工が施されているものが多く、薩摩切子とは少し味わいが異なっています。
江戸切子について
江戸切子は江戸末期からよく製造されている切子のことです。
江戸切子の特徴
江戸切子は透明な鉛ガラス(透きガラス)にやすりや金棒と金剛砂によって切子細工をし、木の棒等を用いて磨き行った手作業による手摺り工程による細工によって制作されました。
明治時代より後になると、薩摩切子の消滅により職人と技法の移転や海外からの技術導入が盛んになり、江戸においても色被せガラスの技法・素材も用いられるようになります。色ガラスの層は薄く鮮やかなのが特徴的で、加工方法も、文様を受け継ぎつつ手摺りからホイールを用いたものへ移行してどんどん発展していっています。
江戸切子の文様は、矢来・菊・麻の葉模様など着物にも見られる身近な和の文様を繊細に切子をしているのも特徴的です。
現在は、当初からの素材であるクリスタルガラス等の透きガラスよりも色被せガラスを素材に用いたものが切子らしいイメージとして捉えられており、多く生産されています。
明治時代より後になると、薩摩切子の消滅により職人と技法の移転や海外からの技術導入が盛んになり、江戸においても色被せガラスの技法・素材も用いられるようになります。色ガラスの層は薄く鮮やかなのが特徴的で、加工方法も、文様を受け継ぎつつ手摺りからホイールを用いたものへ移行してどんどん発展していっています。
江戸切子の文様は、矢来・菊・麻の葉模様など着物にも見られる身近な和の文様を繊細に切子をしているのも特徴的です。
現在は、当初からの素材であるクリスタルガラス等の透きガラスよりも色被せガラスを素材に用いたものが切子らしいイメージとして捉えられており、多く生産されています。
江戸切子の歴史
江戸切子の始まりは幕末の1834年、江戸の商人が金剛砂を用いてガラスの表面に彫刻で紋様を施したのが始まりと言われています。
その後、明治時代の1873年になると明治政府の殖産興業政策の一環として日本初のガラス工場が誕生します。その後、1881年に当時先進国であったイギリスからカットグラス技師を連れてきて、その方の指導により近代的な技法による切子の製造方法が確立されていきます。江戸時代から積み上げられてきた日本の切子の技術と当時最先端の技術力を持つイギリスのノウハウがうまく絡み合い江戸切子はさらなる発展をしていきました。
大正時代から戦前にかけては、大正文化やモダニズム(近代主義)が民衆に広く浸透することで、カットグラスをはじめとする切子を施した食器やランプは多様な形で普及していきます。戦時下では切子を作る機会が激減し、職人の多くも出兵することになりますが、戦闘機に必要なガラス部品を作るなどする必要があったため、大幅な技術力の低下は避けることができました。
戦後になるとGHQなどから大量のガラス食器の発注があります。これにより、ガラス製品もどんどん供給量を増やしていきました。また、大切な輸出品でもあったため外貨獲得の優秀な手段になりました。さらに高度経済成長期に突入すると需要はますます高まっていき、どんどん普及しています。
現在では、残念ながらガラス工場は減少傾向にあり、廃業や撤退をする会社も少なくありません。しかし、その中でも和の特色と個性を生かしてガラス工芸は生き残りをかけて戦っています。地域ブランドの確立など昔とはまた違った方法で今でも進化を遂げているのです。
その後、明治時代の1873年になると明治政府の殖産興業政策の一環として日本初のガラス工場が誕生します。その後、1881年に当時先進国であったイギリスからカットグラス技師を連れてきて、その方の指導により近代的な技法による切子の製造方法が確立されていきます。江戸時代から積み上げられてきた日本の切子の技術と当時最先端の技術力を持つイギリスのノウハウがうまく絡み合い江戸切子はさらなる発展をしていきました。
大正時代から戦前にかけては、大正文化やモダニズム(近代主義)が民衆に広く浸透することで、カットグラスをはじめとする切子を施した食器やランプは多様な形で普及していきます。戦時下では切子を作る機会が激減し、職人の多くも出兵することになりますが、戦闘機に必要なガラス部品を作るなどする必要があったため、大幅な技術力の低下は避けることができました。
戦後になるとGHQなどから大量のガラス食器の発注があります。これにより、ガラス製品もどんどん供給量を増やしていきました。また、大切な輸出品でもあったため外貨獲得の優秀な手段になりました。さらに高度経済成長期に突入すると需要はますます高まっていき、どんどん普及しています。
現在では、残念ながらガラス工場は減少傾向にあり、廃業や撤退をする会社も少なくありません。しかし、その中でも和の特色と個性を生かしてガラス工芸は生き残りをかけて戦っています。地域ブランドの確立など昔とはまた違った方法で今でも進化を遂げているのです。
薩摩切子について
薩摩切子は薩摩藩が幕末から明治初期にかけて生産をしていたガラス細工のことです。一時は生産が途絶えてしまいますが、現在では復刻生産されています。
薩摩切子の特徴
薩摩切子はより細かい細工を用いて、色かぶせと呼ばれる表面に着色ガラス層を付けたものが多いです。
薩摩切子の歴史
幕末に長崎などから伝来された海外のガラス製造書物をもとに薩摩藩主が工場を作り、そこでガラス細工を製造するようになります。1858年にオランダ人医師が鹿児島を訪問した際にはそこで100人以上の人が働いていたそうです。
大名への贈り物や徳川家に嫁いだ篤姫の嫁入り品になるなど、高価で貴重なものとして認識されていました。しかし、幕末の動乱時に薩摩は薩英戦争や西南戦争などもあり、その技術は明治初期には途絶えてしまいます。 しかし、その後は薩摩切子を製造していた職人たちが江戸切子の製造に携わるようにもなり、江戸切子の中に薩摩切子で培われた技術は生かされ続けています。
そして一時は断絶してしまった薩摩切子でしたが1985年以降に復刻生産が始まります。一度途絶えてしまったため、国の伝統工芸品には指定されていませんが、それでも多くの方に愛される魅力ある切子になっています。
大名への贈り物や徳川家に嫁いだ篤姫の嫁入り品になるなど、高価で貴重なものとして認識されていました。しかし、幕末の動乱時に薩摩は薩英戦争や西南戦争などもあり、その技術は明治初期には途絶えてしまいます。 しかし、その後は薩摩切子を製造していた職人たちが江戸切子の製造に携わるようにもなり、江戸切子の中に薩摩切子で培われた技術は生かされ続けています。
そして一時は断絶してしまった薩摩切子でしたが1985年以降に復刻生産が始まります。一度途絶えてしまったため、国の伝統工芸品には指定されていませんが、それでも多くの方に愛される魅力ある切子になっています。
江戸切子、薩摩切子の見分け方
見分けるポイントは大きく2つです。
1つ目は色の付け方の違い。江戸切子はかつて無色透明でしたが、現在では色付きのものが主流になっています。しかし、薩摩切子に着けられている色はぼかしが入っており、グラデーションがあるのに対し、江戸切子はコントラストがはっきりとしています。
2つ目は模様の違い。江戸切子は江戸っ子に好まれる直線を生かした文様が多く、魚子文や麻の葉文など庶民に親しみがあるものがモチーフになっているものが多いです。
2つ目は模様の違い。江戸切子は江戸っ子に好まれる直線を生かした文様が多く、魚子文や麻の葉文など庶民に親しみがあるものがモチーフになっているものが多いです。
まとめ
切子は今でも日本人に親しまれています。もし切子を持っておくと大切な来客の際にも、恥ずかしがることなく食事や飲み物をふるまうことができます。また、置き物として置いておくだけでも美しいです。気になる方は一度、自分の好きな切子を探してみてください。