シリーズ「くらしの年表」こたつの歴史 第4回
シリーズ「くらしの年表」では、私たちの生活の身近にある「もの」についての歴史を紹介していきます。
連載 こたつの歴史 第4回「こたつテーブルでつかまえて」

連載「こたつの歴史」では、日本の暮らしの代表的アイコンの一つである「こたつ」の歴史について紹介していきます。
第4回目の今回は、こたつテーブルの登場についてです。(全5回)
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戦前のこたつテーブル
現在のこたつの主流である「こたつテーブル」が全国に普及したのは戦後、昭和30年代の話であるが、戦前においても、テーブルの天板に電球を取り付けた『上部加熱式やぐらこたつ』や、現在のこたつテーブルとほとんど遜色のない機能性を持った”安全反射こたつ” *2など、こたつテーブルの発明は進められていた。
しかし、『上部加熱式やぐらこたつ』に関しては製品化されず、『安全反射こたつ』に関しては、販売は実現したものの、販路の弱さから東北地方のみでの普及となった

『安全反射こたつ』は、断熱材と反射板を取り付けた上で、その下に熱源を置く形式だった。熱源はブリキ製の引き出しに炭を入れるものだったが、最終的には電熱式となった。従来の掘りごたつとは違い、一酸化炭素中毒の恐れもない事から、子どもにも安心して使えるところが売りだった。定価は8円30銭。
電気やぐらこたつの登場
そして戦争が始まり、文化の発展は一時的にストップしたものの、昭和29年からの高度経済成長に伴って、日本の生活様式は再度急速な発展を進めた。家電業界においては、冷蔵庫、テレビ、洗濯機に代表される「三種の神器」の登場など、その発展は顕著なものがあった。

暖房器具においても、ガスストーブの台頭など、庶民の生活が急速な発展を進めていくなか、昭和32年、東芝は「電気やぐらこたつ」の販売を始めた。当時の営業マンが、蕎麦屋で見つけた掘りごたつから思いついた、アイデア商品だった。

蕎麦屋の2階に設置されていた掘りごたつが1階の天井に突き出しているのをみて、思いついたと言われている。
本当にこれで暖まるのか?
最終的に、この「電気やぐらこたつ」は全国的なヒット商品となったものの、当初の売れ行きは芳しくなかった。熱源の色が理由だったという。従来の「電気やぐらこたつ」の熱源は白い色をしており、多くの人々が「これで本当に温まるのか?」と疑問を抱き、購入まで結びつかなかった。

そこで昭和35年に、白い熱源を赤い色をした赤外線ランプ式の熱源に変更したところ、「電気やぐらこたつ」は全国的なヒットとなった。

上の画像は日立の商品であるが、「東芝やぐらこたつ」のヒットから、大手メーカーが「こたつ台」の開発に参入してきたことが見て取れる。
生活の知恵としての「こたつ」が誕生して約500年。暖房器具として、一つの完成形をみた瞬間であった。
第5回につづく
編集後記
今回は、こたつテーブルの登場について解説しました。
お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、連載「こたつの歴史」のタイトルはすべて、古今東西の著名な文学作品をもじっています。

今回モチーフにしたのは、アメリカの小説家J.Dサリンジャーの代表作「ライ麦畑でつかまえて」。名前を聞いたことがある方も多いかもしれません。

ちなみに、第1回目は、夏目漱石の「吾輩は猫である」。第2回目は、スコット・フィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」。第3回目は、フィリップ・K・ディックの「電気羊はアンドロイドの夢を見るか」をそれぞれモチーフにしています。
次回は、いよいよ最終回!内容はもちろんのこと、タイトルも楽しみにしていただけたらと思います。
担当:株式会社イケヒコ・コーポレーション 伊東朋宏